テニススクールに現れる劇団四季の女

今日はスクールの日だ。ポッと出でスポーツ界を騒がせた肩凝りではなくにしこりのおかげでテニススクールもスクール生が激増だ。

僕はスクールコーチではないが、県テニス協会の依頼で臨時で人助けの為週一でヘルプのコーチをしている。

OLさんも多いが主婦層も旦那の夜食を作ってお化粧たっぷりで現れる。

夜だからそこまでしなくてもいい、どうせ汗で化けの皮が剥がれるのに。

僕のスクールは上手くなるより怪我なく楽しく遊んでもらう事。

しかし、一人だけ場の雰囲気を乱す女がいる。

大して難しいボールでもなく、打ち損なってコートに倒れこんでしまうOLさん。 

皆は劇団四季の女と呼んでいる。 転んだ後、立ち上がるまでが女優のように長いのだ。

おばさん達はさっさと立ちなさいよ~と言うが、彼女はなかなか立ち上がらず余韻を残しはぶてた顔で毅然と起き上がる。

40過ぎのOLさんともあり、周りの皆はあれでは結婚できないよね~。と小言を言っているが、僕もこの歳で独身なんで頷けない。

毎週転んでくれるので、今週は転んで起き上がるまでラジカセで劇団四季の音楽をかけてみようかと思っている。

落ち着くスタンドバー

サラリーマンの頃は、会社帰りに繁華街の行きつけのスタンドバーに毎日通ったものだった。

定年後の趣味で始めたマスターが楽しい会話を毎日してくれた。

不思議に女の子も可愛くて意外性のあるお店だった。

都内に転勤になって広島に帰ってくればもうなくなっていた。

流川の繁華街で同じようなお店があればまた通ってみたいが、なかなか探せないものだと思っている。

陰湿な陰口

ママ友が厄介なグループだということは今に始まったことではない。
ずっと昔からある問題で新しい問題ではないのだ。
ママ友の厄介さは日本のグループが村社会の一形態であるからだと思う。
庄屋と村人がおり、村人は皆平等で「なければならない」という「掟」が「暗黙」のうちにあるのが村社会である。
これに外れるものは爪弾きになる。
外れるか否かの判断は庄屋の胸三寸。
ジャニーズやSMAPも同じ。

私の母もこのママ友の人間関係に苦しんだ一人だ。
何も悪いことをしたわけではない。
ちょっとメンバーから疎まれただけのような気がする。
一旦疎まれると関係のないメンバーまでタカるのが村社会の闇である。
母が悩んだのはママ友にありがちな、妬み嫉みから来る陰湿な陰口や噂である。

子供というものは、意外と大人の顔色を良く観察しているもので、取り分け親とその周辺の大人には敏感である。
子供は弱い立場であり、親の庇護を期待するが、同時に親のピンチにも敏感に反応する。
親の敵は誰なのかと神経を研ぎ澄ませる。
親のピンチは自分のピンチに直結するからである。

私は子供ながらに、母が悩んだ陰湿な陰口の出所がこの隣の婆さんではないかと感じていた。
陰口が余りにも具体的で我が家の生活を観察している者では語れないような陰口だったからである。

隣の婆さんはいつも我が家に対抗心を持っていた。
家の立て替えや子供の進学、車の購入、ありとあらゆるものが婆さんの対抗心のネタになった。
今は、認知症になってしまった私の母がネタになっていると思う。

自分は認知症にならなかったという、勝ち名乗りがしたいのだ。
その現れが私に対する、冒頭の言葉なのだ。
「ありがとうございます」とだけ言ったが、当然、お互い本音ではないことは暗黙の了解なのだ。
こういった、隣近所にとやかくちょっかいを出す田舎においては、このようなやり取りは一種の礼儀なのかもしれない。
本当に困ったときは本当に信用できる人に頼むものだ。

婆さんが他人を心配できるほど健康ではないことは、近所の人々は薄々感づいている。
しかし、婆さんは隣近所の頂点に君臨したいのである。
何十年もたった今でも、そんなつまらない対抗心や嫉妬に囚われているとは、何という人生だろうと思う。

しかし、こういう婆さんは放って置くとして、
日本に存在する有りとあらゆるグループも「村」意識から脱却しないと将来がないような気がするが、如何だろうか。

自動車保険

10年近く乗っていていて、もし事故って全損の査定になったら価値0なんだろうなと思う訳です。
一応、自分の車両保険の査定は60万ではありますが、…。
たとえ相手が10割責任だとしても、私の車の修理代はほとんどもらえないと思います。
まだ、乗れている車なので、ある日突然全く無くなって新車を購入しなくてはならないというのは、酷な話しです。

しかし、世の中の会計の仕組みはそうなっていて、保険の保障額もそれに従っている訳です。
車も使っていれば価値が減っていき何れは0になる(正確には残存価格が残りますが、車の場合鉄くず代みたいなものでしょう)。
減価償却の原理です。

つまり、新車を購入した時から、次の新車のために毎月積立をしないと交通手段を維持できないということになります。
全損査定された時、査定額+積立金で新車を購入するというモデルが今の自動車保険の仕組みです。

元に戻って、その被害者の日記主さんは、何で修理代60万全額払ってくれないんだと相手の保険会社に憤慨しているようですが、上に述べたような仕組みになっているので、支払ってもらえる金額は減価償却後の査定額分が限度という話になっていると推測します。
修理代の不足分は自分の保険会社の車両保険を使うしかありません。
車両保険って高いですから入っていなかったんですかね。
保険会社の担当窓口の人柄や当事者の気持ちの高ぶりとかもあって、相手を罵倒するだけで事態を複雑化させているようです。
新車購入の費用がないので修理を選択したようですが、使用年数が大部経過してしまった全損車の修理というのは考え直した方が良いと思います。
といっても、修理を始めているような口ぶりなので手遅れですが、…。

憤慨する気持ちはわかります。
自分は何も悪くないのに、突然交通手段を奪われて、怪我までして、…、踏んだり蹴ったりですから、…。

もし仮にこれが加害者側だったら、どうなんでしょう。
ある日突然自分が加害者になるかもしれません。
加害者側ですから責任を感じて過剰な部分の減額要求なんてできませんが、保険会社という第三者を通せば、その保険会社が減額要求をするはずです。

世の中、他者との関係性で成り立っていますから、自我を通すだけでは不要な摩擦を生むだけです。
冷静になってお金の算段をじっくり考えた方が良いと思います。
無関係な私だからお気軽に勝手なことをいうように思われるかもしれませんが、…。
私もこれから車で出かけなければならないので、決して人事ではありませんとだけ付け加えておきます。

倫理観について考察してみる

倫理には「自分にして欲しくないことは他人にしない」という原理的な考え方がある。
「自分にして欲しくないこと」というのは、万人に共通する事柄もあれば、個々人で少しずつ考え方が異なる事柄もある。
万人に共通する事柄としては、殺される、傷つけられる、財産を盗られる、騙される等々が思い付く。
これらに関する倫理は法律として禁止され罰則が設けられている。

個人毎に少しずつ異なる事柄は様々なことがあると思う。
そして、この事柄に関しては建前と本音に乖離がある人もいる。
例えば、建前は「淫らなことはして欲しくない」と公言していても、本音では「淫らなことをして欲しい」と思ている人もいる。
つまり、建前では紳士淑女として振る舞うことが倫理的と考えられ、本音ではそうではないという、二条構造を持つ倫理観もある。

さらに「して欲しくないこと」には性差がある。
女性は「犯されたくない」と考えるが、ほとんどの男は「犯される」という状況の現実感がないため、その被害の大きさを想像するしかない。
どれだけ詳細に想像することが出きるかが、それに関する倫理観の現実味に寄与すると思う。

不倫や浮気について考えてみる。
多くの男女は「不倫されたくない」、「浮気されたくない」と考える。
それゆえに、普通は不倫しないし浮気もしないという倫理観を持つと思う。
しかし、これに建前と本音を設定する人が少なからずいる。
建前では不倫はダメ、浮気もダメと公言するものの、本音では不倫したいし浮気もしたいと考える人々がいる。

さらに、不倫や浮気を許容する人もいる。
許容する代わりに自分も自由に浮気や不倫をするという価値観を持つ人がいる。
このような人は人生において特定の人との恋愛や結婚に対して価値を見いだしていないのかもしれない。

このように不倫や浮気に対する考え方や、夫婦関係・恋愛関係に対する価値観のレベルが合っていないと、すれ違いが生じやすい。
ただ、価値観は時とともに変化することがある。
レベル合わせができていたからといって、将来に渡ってレベルが維持されるという保証ははない。

自己の欲望を優先するのか倫理を優先するのかという選択が迫られる。
倫理を捨て欲望を優先するのであれば、相手が「して欲しくなかった」ことをしてしまったことに対する責任を負わねばならない。
責任を負わずして倫理を捨てることはできない。
不倫とは倫理観を捨てること意味するのであるから、初めから責任が問われるのは当たり前のことである。

しかし、人生というものは時として倫理を振りかざす意味がない場合がある。
人は自分らしさを希求して生きる権利がある。
ただ、倫理観を捨てるのであるから責任は問われることの覚悟が必要ではある。

野良亭主

先日、日曜日にスーパーへ行った。
休日のスーパーは人が多くて好きでない。

人が多いと思うその要因は売り場を彷徨く変なおじさんたちのような気がする。
多分、奥さんの買い物に付いてきた購買権限のない旦那だろうと思う。
自分に購買権限がないものだから奥さんが買い物をしている間は売り場を彷徨いて暇な時間を潰そうとしているに違いない。
奥さんと一緒に買い物をしている旦那は意外と少ない。
仲良く買い物をしている夫婦は羨ましく思うものの、時おり言い争いをしていたりすると旦那は奥さんに任せればいいものをと思ってしまう。
多分、そのような旦那が居たたまれなくなって売り場を彷徨く「野良亭主」になってしまうのだろう。

彷徨いている旦那は邪魔というだけでなく、気になる商品を奥さんのカートまで持っていくわけでもなく、ただ単にベタベタ触り元の場所に戻したりしているのである。
食品売り場の商品の場合、衛生上のリスクがあったりする。
野良亭主は車の中で待機していた方がよっぽどましな気がする。
既にその事に気がついる旦那もいて、奥さんが買い物が終わるまで車で待機していて、奥さんが買い物が終わる頃手伝いに出向く人もいる。

しかし、せっかくいっしょに買い物に来たのならば、野良亭主になるのではなく、一緒に買い物をして価値観のすり合わせをすれば良いのにと思った。
金銭的価値観の一致は大切だと思う。

ホモ・サピエンスの先祖

サピエンスとネアンデルタール人の関係に関する最新情報がNHKスペシャルで放送されております。

昔、高校生だった頃、歴史の授業で人類の発達について幾ばくかの知識を教え込まれたことを思い出しました。
確かにホモ・サピエンス以前にヨーロッパでネアンデルタール人が繁栄していたと習いました。
当時の疑問として、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスの先祖なのか傍流なのかということでした。
しばらくして、傍流であることがわかりましたが、逆にネアンデルタール人とホモ・サピエンスが共存したということは無かったのだろうかという疑問が湧いてきました。

その事については、時おり気になりながらも、しばらく頭のすみに留まることになりました。
積極的に調べることもせずに、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの交雑種は存在しなかったのだろうかという疑問にも発展させておりました。
もし、交雑種が現在も生存していたとしたら、どんな人種になっているのだろうと想像したりもしました。

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとは、犬に例えると、土佐犬とシェパードのように犬種の違いのような関係だと思われます。
犬には異なる犬種同士の交雑種が存在するように、ネアンデルタールとホモ・サピエンスの交雑種が存在しても不思議ではありません。

番組ではその回答が放送されています。
我々、現代のホモ・サピエンス(アフリカ人以外)の遺伝子の中に1.8%から2.8%の割合でネアンデルタール人の遺伝子が存在するとのこと。

やっとこれまで漠然と疑問に思っていたことがスッキリした感じですが、交雑種が誕生したときは、どんな場面だったのだろうか想像してしまいます。
意思疏通が思うようにできない種の間では、どんなやり取りをしてセックスしたのだろうかと疑問が湧いてきます。
番組では迷子になったネアンデルタール人の女の子がホモ・サピエンスの家族に育てられ成人しホモ・サピエンスの男との間に交雑種の子供が誕生するという穏やかな場面が想定されておりましたが、実際にはそれだけだったのだろうかということも気になります。

ただ、ネアンデルタール人も含めて人類最初の争うというのは、ホモ・サピエンス同士のものしか発見されていないというので、ネアンデルタール人がホモ・サピエンスを襲撃したとか、あるいはその逆の襲撃というのはなかったのかもしれません。
また、番組によるとネアンデルタール人は家族単位で生活することが多く、集団や社会を構成することがなかったと論じています。
そのために気候変動で食料不足に陥ったとき集団で解決することができずに絶滅したのではないかと結論付けています。

平日街をぶらつき

相変わらず彼女とは、ラブラブで過ごしてます
こないだの連休はたまたまお互いの休みが合って、そしてお互いのパートナーが仕事だったので、一日中デートしてきました

初めは、大森山の展望台に行ってきました
世の中は連休の中日で平日とはいえ、休みの会社もあるので、知り合いに会わないようにとドキドキしながらね
なぜか展望台には外国人の子供が二人トレーニングをしてた(笑)
その後は岩城の方にドライブ
道の駅は平日にしては、混んでたね

人混みを避けるように海にせり出した漁港みたいなとこまで行って、海を見ながらキスして
この辺まできたらお互いの知り合いはいないだろうし
普段の平日と違い、人目を気にしながらだったけど、
デートっぽいことできて良かったな
普段の平日なら道の駅とか寄ること
できたんだろうけどさ

キスしたらお互いのスイッチが入っちゃってね
市内に戻って、ホテルに入ったの
お昼前だったかな?